同じ動作を皆がいっせいに行う。
動作の形を合わせて同じようにみえたとしても、
内部の運動感覚には大きなばらつきがある。
完全な同一動作になることはまずない。
自分と他人を比較する。
自分と世界を比較する。
比較対象が大きくなればなるほど
運動感覚の差に気づく。
何も気にせず
比較対象の小さな世界にいれば
運動感覚の差に気づくこともない。
しかし、運動感覚というのは
使われなければどんどん薄くなる。
すると、なぜか「不安」がつのり出す。
それは、動作がぎこちないことや、
そのせいで「不調」にみまわれるから。
運動感覚とは、なにも抜群に動けることの感覚ではなく
日常生活動作をおこなうのに大切な感覚。
それが、動作のぎこちなさ、不安、不調を感じて
はじめて運動感覚が薄れていることに気づく。
前者の運動感覚の差に気づく人は、
感覚の差を埋めるためのチャレンジをしている。
後者の「不調」を感じている人は、
運動感覚が鈍るのを年齢のせいだと信じて
生涯チャレンジに至らないかもしれない。
感覚というのは、大きな個人差があるということ。
ただ、もしカラダをやわらかく滑らかに動かしたいのであれば
運動感覚を目覚めさせるための努力が必要。
これは、
自分の気力を充実させること、
自分の表現力を高めること、
自分の存在感覚を濃くすること、
自分に問いかける努力。
世界に問いつづけること、自分の内部に問いつづけこと、
これらは同じことのように思える。
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カラダをやわらかく滑らかに動かしたい
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