虚しさが重なり、期待や希望のようにいかず心残りのような胸の奥の引っ掛かり、何とも表現できないが悲しい気持ちに襲われる。誰でも自分に都合よくありたいが、自分に都合よく、すればするほど、必ずしも自分に都合よくならない。
心と身体は一体、身体はみえるが心はみえない。そのみえない心に構造はあるのか、それはみえない。しかし、身体は心の写し鏡のようなものといわれる、心の状態が身体に現れているように感じることがある。
構造動作理論という指標を得て20年以上になる、最近は人の身体や動作を「観る」ということが少し分かってきた。人によっては複雑に身体を歪めているので、細かく「観る」ことができるようになった分、難しい身体の調整が増えたように感じる。しかし、細かく「観る」ことができるようになったことで、一つ一つを丁寧にアプローチすれば難しい身体の調整も何とかクリアできる手応えを得た。そうすると、細かく「観る」ということの先には何があるのか、複雑に歪んだ身体の調整をしていると、私の身体に異変を覚えることがある。そのようなときは、写し鏡のような状態が身体に現れているのではないかと思う。
どのような素晴しいメソッドに出会えたとしても、トレーニングを積み重ねなければ身に付かないし、そのよさを実感することはできない。実力以上のことはできない。物事の原理原則というのは、おそらくとてもシンプルなもので、物事の構造も積み重ねでできているような気がする。
さて、お伊勢参りに行って、鼠径部が痛くなって右足が上がらなくなった人を治療した。歩くことが苦手な人が急いで歩いてもよいことはない。正しく歩けるようにするのも積み重ねが必要。歩くことが苦手な人は、ゆっくり歩いた方がよい。伊勢神宮、多度大社もよいが、多賀大社もおすすめだ。鈴鹿山脈の紅葉がはじまり景色も最高!