私は人の笑顔の裏に感じる無理を察知したときは近づかないようにしていた。それは何か違和感としか表現できないが、私にとって触れてはいけないものなのだろう、無意識的に安心できる笑顔だけを受け入れていた。
私が安心できる笑顔とはどのようなものか?きっと無理がないものなのだろう。私は不思議だった。どうみても辛い状況にもかかわらず笑顔をつくっている人、ほうれい線にくっきり深い皺が刻み込まれるほどに笑筋を発達させている人など、私は痛々しく、感じた。
しかし、これらは私が感じる感覚にしかすぎない。それはそうだ、自己防衛的に感覚を鈍らせていた私の幼少期の記憶のように、人には様々な背景がある。その状況はその人の人生そのものなのだ。私がとやかくいえるものではない。
構造動作トレーニングでも同じようなことがいえる。その状況を変えずに変化をもとめても限界は近い。無理がある状況、から、無理せずできる状況へとトレーニングしていくのだ、痛みだけ、動作の質だけを変えたいといわれても、私にいえることはない。私がトレーニングやリハビリのアドバイスができるのは、その状況を変えたいという人、場合のみにだ。
あなたは何故、股割りばかりをしているのか?と聞かれる。たいがい、股関節を滑らかに動かすことができるようになりたいから、と答えてきた。しかし、私の意識の深いところでは、深部感覚を目覚めさせ自己をもう一度、所有したいという願望があるのかもしれない。股割りのイメージがきつい、痛いのようなマイナスに捉えている人にとっては私も無理しているように感じるのかもしれない。他者から見れば同じことのルーティーンをしてるようにしかみえないけれども、私自身の肉体の中では一度たりとも同じ日はないのだ。それが、おもしろく、また楽しい。